日本の精神科患者は通院、入院を合わせて302万人(2005年、患者調査)に上る。国民の40人に1人が何らかの医療を受けている計算だが、私たちの身近な存在とは映っていない。岡山市内の精神科診療所を主な舞台とした「精神」では、ベールに包まれた病気の当事者が、モザイクの一切かからない状態で登場し、肉声を発している。日本の精神障害者を取り巻く状況を鑑みれば画期的な映像と言えるだろう。
日本の精神医療には、“治療”よりも“治安”対策を優先させてきた歴史がある。1950年に制定された「精神衛生法」は、長く公認されてきた私宅監置(座敷牢)を禁止、病院への保護・収容を進めた。64年には米国のライシャワー駐日大使(当時)が統合失調症の青年に刺される事件が起き、隔離収容の動きを加速させたと言われる。その後、職員の暴行で患者が死亡したことが発覚した栃木県の宇都宮病院事件(84年)など精神病院での不祥事をきっかけに転換が図られ、精神保健法、精神保健福祉法へと法改正が進んだ。入院中心から地域生活を軸にした医療への脱却が進み、「障害」として福祉の対象にもなった。
ところが、いまだに入院患者は全国で31万人を超え、平均在院日数は312日と長い。条件さえ整えば退院できる「社会的入院」の患者を厚生労働省は7万人と見積もっている。背景には、彼らに向けられた「偏見」が地域生活を難しくしている現実がある。
それは残念ながらメディアの影響も大きい。2001年、大阪教育大付属池田小学校で起きた校内児童殺傷事件では犯人の精神科通院歴や精神障害者の再犯が増えているという趣旨の小泉純一郎首相(当時)の発言が大きく報道された。だが、統計的には精神障害者が刑法犯となる率は一般のそれより低い。この事件でも犯人が病気を装っていたことが後に判明するが、「精神障害者は何をするか分からない」という偏見を拡大した。精神障害者の地域生活をテーマにした連載を執筆するために岡山県内の病院や社会復帰施設を取材した際、アパートを借りるのに苦労したり、近所の目があって自分の家に戻れないという当事者の姿をいくたびも見た。
動機が不可解な場合、原因を「病気」とすれば分かりやすい。だが、その分かりやすさが問題の本質を見極める上で落とし穴になることもある。事件報道では、犯人が精神障害者で責任能力がないと分かると不起訴の可能性が高くなり、報道のトーンが落ちていくことがある。人権への配慮から名前や顔を伏せることを当たり前のようにしているが、当事者に接して病気の特性や普段の姿を見る機会は少ない。見えないからこそ偏見は高まる。
「精神」では、想田和弘監督がカメラで当事者を虚心坦懐に見つめた。驚くほど赤裸々な体験談や思いを通じて描かれているのは、「病気」ではなく、一人一人の「人間」だ。さまざまな体験によって病気を抱える一方で、豊かな人間性を保つ彼らの姿は、私たちと何ら変わらない隣人であることを説得力を持って教えてくれる。
そして、ついつい「分かった」ような気になってしまうが、「人間は簡単に理解できないものだ」という謙虚な気持ちを思い起こさせてくれるのがラスト-シーンだ。人はそれぞれ違う。だからこそ分かろうとし、分からずに悩む。その繰り返しが少しずつ理解につながっていく。「カーテンで仕切られた世界をのぞいてみたい」と撮影中、想田監督は語ったが、そこには、そんな当たり前の人間関係があったのではないだろうか。